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『わかりあえないことから』読了

劇作家の平田オリザさんが書いたコミュニケーションについての本。興味深かったです。半分ぐらいは演劇と教育の話でしたが、そこが面白かった。

著者は、人はわかりあえない、という立場からコミュニケーションを考えていくことを提唱しています。いろいろな視点が示されていたので簡単に紹介。

・コンテクストの「ずれ」
高校生に「列車の中で他人に話しかける」という寸劇をさせる。ところが「旅行ですか」と尋ねる簡単な台詞が言えない。発することはできるのだけど、自然に言えない。なぜか。それは「旅行ですか」といきなり他人に話しかけること自体が、そもそも今の高校生にとっては不自然だから。でもあまりに単純な言葉なので自分でもなぜ上手く言えないかが分からない。もちろんそうでない人も世の中にはいる。例えばアイルランドでは話しかけない方が失礼(不自然)と考える人が9割以上いるんだそう。おそらく日本だって昔は同じタイプの人が多かったでしょう。そういう人たちにとっては自然に言いやすい台詞になる。
発言には必ず「意図」つまり「その人がどんなつもりでその言葉を使っているか」という文脈がある。これを著者は広義における「コンテクスト(文脈)」と呼んでいる。高校生が自然に「旅行ですか」と言えないのは、その言葉が今の高校生のコンテクストのちょっと外にあるから、ようするに、なぜそんなことを尋くのか、コンテクスト(文脈)が微妙に理解できないからなんだそう。このちょっとした「ずれ」を自覚することが、コミュニケーションの第一歩なんだという話。
 
・みんなちがって、たいへんだ
コンテクストの「ずれ」を認識することは、結局のところ、ひとりひとりの個性を確認していく作業になる。コミュニケーション論で「個性」という言葉が出てくると「それぞれの個性を尊重しましょう」というような「世界に一つだけの花」みたいな話になりがちですが、そうではない、と平田さんは書いています。「みんなちがって、みんないい」ではなく「みんなちがって、たいへんだ」という話だと。多文化共生社会は、単一文化、単一民族で構成される社会よりも究極的には強くなる。それは様々な研究結果から分かっている。だけど、今の欧州の状態を見ればわかるように、多文化共生は容易なことではない。異文化への対応能力が比較的高いはずの欧州人ですら、そのあまりの面倒くささに辟易して単一国家へと回帰したがっている。だが、異なる文化が混じり合う社会は、地球全体の方向性としては、もはや避けられない流れでもあります。なんとかして、これから主役になる子供たちには、この面倒くささを乗り越えて対話する強い精神力を育まなければならない。
そしてそれにはフィンランド・メソッドが有効であろうと筆者はいいます。例えば、優れた意見を言う子供を評価するのではなく、様々な意見を引き出してそれらを擦り合わせ、最終的に合意に導いた子供を最も評価する。そういった教育をしてはどうか、という話。
 
・対話と対論の違い
対論(ディベート)は対立したAとBの意見のどちらが正しいかを話し合いで決める。その結果Bが正しいということになれば、Aは意見を変えなくてはならない。翻って、対話は、AとBという意見を擦り合わせてCという新しい概念を導く作業だと平田さんは書いている。まずはじめに、いずれにしても、両者の意見は変わるのだということを前提にして話はじめるのだと。続いて以下のように書いている。
 
 ーーーだが、こういった議論の形にも日本人は少し苦手だ。最初に自分が言ったことから意見が変わると、何か嘘をついていたように感じてしまうのかもしれない。あるいはそこに、敗北感が伴ってしまう。
 「対話的な精神」とは、異なる価値観を持った人と出会うことで、自分の意見が変わっていくことを潔しとする態度のことである。あるいは、できることなら、異なる価値観を持った人と出会って議論を重ねたことで、自分の考えが変わっていくことに喜びさえも見いだす態度だと言ってもいい。
 ヨーロッパで仕事をしていると、些細なことでも、とにかくやたらと議論になる。議論をすること自体が楽しいのだろうとしか思えないときも往々にしてある。
 三十分ほどの議論を経て、しかし、たいてい日本人の私(A)の方が計画的だから、その「対話」の結末は、Cというよりは、当初の私の意見に近い「A'」のようなものになる。そこで私が、
「これって結局、最初にオレが言っていたのと、ほとんど変わらないじゃないか」
 と言うと、議論の相手方(B)は必ず、
「いや、これは二人で出した結論だ」
 と言ってくる。
 だが、この三十分が、彼らにとっては大切なのだ。
 とことん話しあい、二人で結論を出すことが、何よりも重要なプロセスなのだ。ーーー(P103〜104より)
 
 よく聞く話ではあります。もちろん上手く結論がでないこともあるでしょうが、だからといって「どうせ分かり合えない」と最初から諦めてしまうことは、これからの社会ではできません。日本では阿吽の呼吸とか、察し合う、空気を読む、などが美徳とされ、下手に自己主張をするとすぐに「うざい」と思われてしまう傾向があります。これはこれで、表立って争いが起きにくいという点でメリットがあるのかもしれない。単に文化の違いであって、どちらが良いという話ではないのですが、しかしこれからは多数派である欧米人にあわせて「対話」を厭わない姿勢が求められるだろうということ。
 平田さんはここでも、前項に書いたような、粘り強く対話する精神力(これを「対話の基礎体力」と定義して)が必要だと言っている。自分には正にこの能力が足りないと以前から思っていたので、仰る通りだなと頷かざるを得ませんでした。仕事でもたまに欧州人とやりとりしますが、主張が激しくてほんとに面倒くさいですけどね。
 
他にも、日本人は自分たちのコミュニケーションの形態が少数派だということをもっと自覚すべきだという話もありました。自覚して、卑下するのではなく、必要に応じて多数派のマナーを学べば良いだけだと。同化したり魂を売渡す必要はないのだと。これは自分も以前ここここの後半で似たようなことを書いてましたが、実はこの本に限らず他でもよく言われていることでもあります。特に、翻訳の世界ではかなり以前からこのような思想があったと何かの本で読みました。「国際人になるというのは他の国の真似ごとをすることではなく、己の立ち位置を正確に推し量ることなのだ」という話だったと思います。
 
以上、ごちゃごちゃと長く書きましたが、文章が上手いので普通に読み物として面白い本だと思います。もちろん新書ですので、論文や教科書などと違い、書いてあることは概ね筆者の主観的な意見に過ぎません。根拠が示されていたとしても、論理的とは言えないような飛躍した話も多いです。冒頭にも書いてありますが、結局のところ直感的な話だということなんでしょう。まぁ、こういう考え方もあるか、というスタンスで気軽に読むのがよいのではと。(こういうのも、ある種の対話の基礎体力と言えるのかもしれないですね)
 

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